昭和五十年十月二十五日 御理解 第八節「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃ、無信心者程神は可愛い、信心しておかげを受けて呉れよ」



如何に神様が可愛いと思いをかけて下さっても、思いをかけて下さっても、おかげが受けられると言う事ではないのです、這えば立て、立てば歩めの親心と申します、そこの親心と這えば立ち、立てば歩むと言う様に成長して行ってこそ親の喜びである、ところが這い這いは出来るけれども、何年たっても立ち上がりもきらない、勿論歩く事も出来ない、それこそ親の不憫の情と言うか、所謂憐憫の情と言うか本当に可愛想な子だと言う意味なんです。
ですから或る人が言う、神様は無信心者程可愛いと仰るのだから、無信心の者の方が神様から可愛がられると言った様な事を言う人がいますが、それは違います、どこまでも這えば立ち、立てば歩めの親心にとものうて、歩きよれば一歩歩きが出来る様になってこそ、親の真の喜びであり、親子共に助かって行く事なんです。
そこでお互い私共、自信の信心をひとつ見て見なければなりません、本当に一生懸命ああして毎日毎日参っては来るけれども、這い這いは出来ても立ち上がりも切らん、ようやく立ち上がり切るごとなっても、神様に本当に可愛い者じゃと、そう言う言うならば屑の子になってはならない、それをも少し言うと信心の堂々まわりと言う事を申しますよ、信心の堂々まわりばかりしとります。
それこそが本当の屑の子です、同じところでいつも失敗しとる言うならば信心の成長が一寸見られないと言うのです、勿論、信心の生長がみられないからおかげもよう頂かんのです、これはまた表現を変えますと、自分自信がわかって来る、信心は自分自身を見極める心が強くなる、本当に私こそ屑の子だなと、これはまた違った意味の屑の子、そう言う自覚ができて来ると、これは本当に神様の可愛いと思う心が、おかげになって繋がって上がって来る。
だからここ辺のところは親の情と言うかね神様の情と言う、まあ言うなら人情と神情と申しましょうかね、人情と神情でしょうね、だから本当に我れ屑の子の信心で自覚が出来て来る、それは信心がいつまでも堂堂まわりをしとると言う意味の屑の子ではなくてです、自分を見極めて行けば行く程に、相済まん私と言う内緒的なものですね、今日は私はここんところを、この屑の子とお互いの信心が進まない、生長しない所謂堂堂まわりばかりしておる、それこそが今日屑の子だと分かって頂きたいと思います。
信心の堂々まわり、這えば立て立てば歩めの親心にもかかわらず、親の心は千万無量だけれども子供が仲仲立ち上がろうともしない、這おうともしない勿論歩こうともしない、もう親の情としてこの様に可愛想な事はない、だからそう言う可愛想な心、不憫な心に、不憫な心は募るのだけれども、親としても如何ともする事はできないね、親が歩いてやると言うわけにはいかん、こども自身が歩かなければ。
信心しておかげを受けてくれよと言う事は信心を進めて行くと言う事、段々やはり一つの流儀と言うものがありましてね、金銭には強いけれども病気には弱いと言う人がいます、同じ難儀と言うてもやはり金銭の経済的な難儀、それからまあ病気、また大きく三に分けるならば、人間関係の悩みも苦労もあるわけです、ね、人間関係だけには強い、金銭には例えばサア明日、もういよいよの金がいるけれども、実際はないそう言う時にはもう度胸が出来ておかげを頂く言うなら、こつあいを覚えておると言う人がある、ところが病気には弱い、もう一寸悪からすぐ医者といわにゃ出来ん、すぐ薬といわにゃでけん、金銭の時にはままよと言うどん腹が出来るんだけれども、病気の時には仲仲医者だ薬だと頼らんならん様な人がありますね。
人間関係に弱い人がいます、そのためにやはり自殺をする位のね、自分の病気を苦にして自殺をする、お金がないそのために責められて自殺をする、人間関係の苦しみで自殺を自分で自分の命を絶つと言う様な人すらがあるのですから、死ぬ程にと言うのですから、難儀の様相と言うものは同じなんです、けれども金銭の事には強い病気には強い、人間関係には強いと言った様な、それはやっぱり流儀があるようです、合楽の場合なんかどう言うことでしょうか、私自身病気はあんまりした事がないから、まあ根限りの病気させて頂いて、通るところ通らせて頂いとるから、金銭には非常に強い感じがしますですね、病気なんかの時には私にまかせときなさいなんて、滅多に私は言いませんですね、これが金銭関係の事ならもう任せなさいと言えるのです。
それは私が確信を私自身がやはり持っておるからなのです、ね、この頃の加西さんが大祭にお参りをして、十五日から十六日まで、十六日の朝帰らなければならんとを、私が帰さずに大祭を拝んで帰れと、これは私が確信を持っておるから、まかせときなさいと言えれるわけです、ところがあれが病気であった場合あんなのはあんな風に、言えただろうかと自分でも言えた位、理屈は大体おなじなんです、ですから本当に神様を信ずると言ったら人間関係であろうが、病気の問題であろうが同じに信じなければならんのですけれども、そこんところに愈々これからの稽古の焦点を置いて行かなければいけないと言う風に、思います。
信心が言わば一所におるのではなくて堂々まわりではなくて、一段と信心を深めて行くと言う事はそう言う事だとおもいます、金銭関係には自信を持っておるが、事病気と言う事になると少少その信ずると言う事が薄くなる、だから病気なら病気と言う事ではいつも堂堂まわりをしておる、と言う事になる訳です、私は今日のここんところを本当にあの程度の低いところでね、金光様の信心を頂いておると言うだけで、お取り次ぎを頂いておると言うだけで、お取り次ぎを頂いて只お願いをすると言うだけで、それが一歩も前進しようとしない人達の姿これが親の目から見たら屑の子であろうと思います。
だからそう言う屑の子になってはならん如何に屑の子、程可愛いと言われても只可愛いと言う、憐憫の情を神様が持って下さるだけでは親神様とても何とも致し難いのです、見守っているより外に仕方がないのですから、只神様が心を痛めて下さるだけなのです、だから神様に心を痛めさせるだけの信心では相済まん、だから次ぎの手掛かりと言うか此処までは頂いたならば、次ぎの信心を目指さなければならない、私は経済の関係ならば或る意味でなら自信たっぷり、事、病気であると言う事になると、金銭の時の様な風には自信がない、そんならばそこんところが、またできて行く様な手がかりを持ってです、信心を確信的なものにして行くと言う私は稽古が出来なければいけないと思うです。
それが信心しておかげを受けて呉よとはそこの事だと思う、今日は屑の子と言う事を、堂々まわりの信心を神様は屑の子と思いなさる事じゃないかと聞いて頂いたね、這い習うたけれども立ち上がりきらんいつも這い這いばかりしとる、これじゃ親も本当に情けない程に可愛いと思うけれども、親とても仕方がない、と神様にそう言う思いをさせるような信心ではならんと言うのです、スキッと例えば信心の有難いと言う度合が深くなり広くなりその有難い、深い広いと言うその裏付けは神様を信じて疑わないと言う度合と言う事にもなります。
その度合が段々強くなって行く信心をしてこそ、初めて神様も御満足、私共も満足のおかげが頂けるのです、ね、一つ神様から屑の子と思われたり見られたり、しておる自分ではないかと言う事を見極めて、ああこれではならん本気で這いよるなら立ち上がらにゃならん、立ちあがるなら歩き習うと言う手掛かりをつくらにゃいけん、そこから言うなら一人歩きが出来れる、おかげを頂いたときが初めて安心のおかげが頂けた時、神様もまたあの氏子はもう大丈夫と安心して下さる時だと思いますね。どうぞ。